【闇へ曳く手、あるいは私と先輩が同じ布団で眠るようになったわけ】

 私とR先輩は、よく一緒に旅行にいく。そして、同じ布団で眠る。先輩がそうするのには、ちょっとした理由がある。
 その理由を話すには、まずは私と先輩が経験した、ひと夏の苦い思い出を聞いてもらわなくてはならない。

 ある年の、夏休みも終盤の八月中旬。私はR先輩と共に、海へ出かけた。
 普段は口数少なく、物静かなタイプのR先輩が、海ではめずらしくはしゃいでいた。聞けば、海に来るのは本当に久しぶりなのだと言う。
「小学生の頃、二年連続で水難者の霊に取りつかれて、海底に引きずり込まれそうになってね。二回目に溺れた時は、助けられてからすぐ病院に担ぎ込まれて、そのまま三日ほど意識不明だったわ。それ以来、海には近寄らないようにしてたんだけど……」
 霊媒体質のR先輩は、普通に町を歩いているだけでも霊を引き寄せてしまう。こうした水場ではその頻度はさらにひどくなり、一人でいると必ず何らかの霊障に見舞われるそうだ。しかし本来は旅行好きのR先輩、なんとかして霊などに煩わされない快適な旅を送れないものかと、八方手を尽くしていた。
 私に声をかけたのも、そういう事情らしい。私は霊感こそあるものの、悪霊に取り憑かれたりだとか事故に遭わされたりだとか、そういう経験がまったくない。どうも私には、かなり強力な守護霊が付いていて、悪霊のたぐいを寄せ付けないらしいのだ。
「A(私の名前)を連れてきたのは正解だったわ。これだけ長距離移動しても、人のいっぱいいるところに来ても、嫌な感じが全くしないもの」
 霊に対する蚊取り線香のような扱いが若干腑に落ちないものの、R先輩がこんなに喜んでくれるならまあいいかな、と私は思った。

 海で遊んでいる間は始終上機嫌だったR先輩だが、遊び終えて旅館の部屋に戻ってきた瞬間、顔をひきつらせた。同時に私も、部屋に入ったとたん鳥肌が立つような寒気を覚える。エアコンもない真夏の室内だというのに、ぞっとするほど空気が冷え切っていた。
「……何かいますね。部屋、変えます?」
 私がそう聞くと、R先輩は青い顔でうなずいた。
 旅館の人に泊まる部屋を変えてもらい、そこで眠ることにした。「部屋を変えてほしい」と言った時の女将さんの不思議そうな顔からして、特にいわくつきの部屋というわけではなさそうである。
 二人並べて布団を敷き、電気を付けたまま寝床に入った。前の部屋のような冷気は感じなかったが、先輩の顔色は悪いままだ。
「大丈夫ですか?」
 R先輩は頭痛を堪えるような仕草で頭をおさえ、うめき声を漏らした。
「まだいる。……さっきの、部屋に憑いてたわけじゃないみたい。たぶん、私についてきたんだと思う」
 遠巻きに、こちらをうかがうような気配を感じるのだという。
「それも、かなり大勢。けど近づいてこれないみたい。Aがいるからだと思う」
 悪霊たちは、R先輩という絶好の獲物に手を出せず、かなり苛立っているらしい。それで腹いせのように、悪意のこもった念を先輩に送っているのだ。
「けど、うん。これくらなら大丈夫。放っておいて寝ましょう」
 つらそうな顔色に無理やり笑顔を浮かべて、R先輩が言った。先輩が狙われている以上、今から他の宿に移っても同じだということなのだろう。何も悪くないのに酷い目にあっている先輩がいじらしくなって、私はつい妹にするような調子で、先輩の頭をなでた。いつもなら他人に触れられることを嫌がる先輩も、その時は大人しくなでられていた。

 夢の中で、私と先輩は小舟に乗っていた。二人を乗せて、舟は黒く冷たい海の上を漂っている。
 舟の周りで、ばしゃばしゃと水音が上がった。魚が、白い腹を見せて水面をはねている。
 見てください、せんぱい。魚がはねてますよ。
 ばしゃばしゃ。ばしゃばしゃ。
 舟を取り囲むように、何匹もの魚がはねている。
 なんだか変ですね、せんぱい。
 魚ではなかった。手だ。無数の白い手が水面から伸びて、舟の周りで水をはね散らかしている。ばしゃばしゃばしゃ。
 まるで溺れた人がそうするように、激しく宙を掻いている無数の手。それが一斉に、舟のへりを掴んだ。
 逃げましょう、せんぱい。
 舟の上に視線を戻すと、先輩の姿は消えていた。

 悲鳴が聞こえて、私は目を覚ました。
 真っ暗だった。寝る前に付けていた明かりが消えている。隣りを見ると、R先輩の寝床は空だった。
 部屋の外の廊下から、泣き叫ぶ声が聞こえている。あわてて廊下に飛び出す。
 照明の消された暗い廊下の奥の、さらに深い闇に向かって引きずられていくR先輩の姿が見えた。先輩の他には何の姿も見えない、だけど彼女の着ている寝巻きが、不自然に突っ張っている。まるで、無数の手が彼女の寝巻きを掴んで、廊下の奥へと引っ張っていくようだ。先輩は泣きながら必死に抵抗しているが、見る間にその姿が遠ざかっていく。
「いや! やだ! A、助けてA!!」
 私は全速力で先輩に追いすがり、彼女の腕を掴んだ。先輩が、溺れる人間の強さで私の腕を握り返してくる。
 R先輩の体を曳きずる凄まじい力に、私の腕は根元から引きちぎられそうだった。私は必死でその場に踏ん張り、闇の奥に吸い込まれようとするR先輩を引きとめていた。あの闇の奥に連れ去られたら、助からない。私もR先輩も、それを本能的に理解していた。
 どれほどの時間そうしていただろうか。やがて、ふっと力が消え、私とR先輩は逆方向に倒れ込んだ。悪霊の気配は消えている。底なしの暗闇に見えた廊下の奥には、行き止まりの壁があるだけだった。
 それからしばらくの間、廊下にへたり込んで泣きじゃくるR先輩を、私は子どもをあやす様に抱きしめていた。

 後から聞いた話。
 R先輩の証言によれば、私が先輩の腕を掴んだ瞬間、悪霊の力があきらかに弱まったらしい(それでも『根元から腕を引きちぎられそうな力』だったのだから、恐ろしい限りだ)。頭をなでた時に嫌がらなかったのも、私の手が触れた瞬間、それまで続いていたひどい頭痛が、すっと軽くなったからだという。どうやら「私の体に触れている」状態であることが霊対策としてはなにより有効らしい、先輩はそう結論付けた。

 それ以来、R先輩は旅行先では、いつも私の布団に潜り込んでくるようになった。以前の失敗を生かして、布団の中でも身体を密着させ、それこそ恋人同士のように手をつないで眠る。先輩からすれば自衛のための手段なのだろうが、私にとっては、普段さわられるのを嫌がる先輩を思う存分さわりまくれる良い機会だ。もちつもたれつ。イソギンチャクとクマノミのような、共生関係というやつである。
 私にいじり倒されるR先輩は不満そうだが、事実こうして一緒に眠るようになってから、先輩が宿で霊障にあうことはなくなった。私というよりは私の守護霊の手柄だが、それでも私は、心の奥でそのことを、ひそかに誇りに思っている。