【私のこと、憶えてる?】

 ある休日、R先輩と一日中一緒に遊んで疲れた私は、帰りの電車の中で居眠りしていた。隣りではR先輩が携帯ゲームをやっていたため、降りる駅が来たら起こしてくれるだろう、という甘いもくろみもあった。
 ふと気がつくと、人影まばらな車両の中で、私の目の前に人が立っている。制服姿の中学生くらいの女の子だ。
 私の顔を見ると、その女の子は笑顔でこう聞いてきた。
「ねえ、私のこと憶えてる?」
 そう言われて、改めて彼女の顔をじっと見つめるが、見覚えがない。一年前、中学生だった頃の後輩か、はたまたバイト先の元同僚か。寝ぼけた頭で深く考えるのが面倒臭くなって、私は、
「あー、はいはい、憶えてる。久しぶりね」
 と適当に返事をする。
 女の子はそれだけで満足したらしく、私の前から立ち去っていった。
 とにかく眠かった私は、女の子のことを頭から追い出し、もうひと眠りしようと腕組みをして目を閉じる。だが、数秒もしないうちに、今度は凄まじい叫び声で眠りを妨げられた。
「なんで憶えてないのよ!!」
 あの女の子が叫んでいた。私のすぐ隣、R先輩の目の前に立って。まるで女の子を無視するようにうつむいたままの先輩にむかって、女の子は怒鳴り続ける。
「なんで憶えてないのよ!! 私はあんなに痛かったのに!! 痛かったのに痛かったのに痛かったのに痛かったのに!! 顔を見たでしょう!! 私の顔を見たでしょう、なんで忘れるの!! なんで忘れられるのよぉ!!!」
 頭を掻き毟って髪を振り乱し、目を剥いて少女は泣きわめいていたが、電車が駅に止まりドアが開いた瞬間に、煙のように姿を消した。
 車内に人が増えてからも、先輩はうつむいてぎゅっと拳を握りしめ、寒さをこらえるように身体を震わせていた。

 電車を降りてから、私は先輩に聞いてみた。先輩が言うには、あの女の子から私とまったく同じことを聞かれたらしい。
「ねえ、私のこと憶えてる?」
 憶えてない、知らない。先輩はそう答えたらしい。
 真面目ですねぇ、知らなくても、適当に話あわせとけばよかったのに。私がそう言うと、先輩は首を振った。
 知らなかったのではなく、知っていたから思わず嘘をついてしまったのだという。

 一年ほど前に、同じ沿線の電車内で、包丁を持った男に乗客数名が襲われるという通り魔事件があった。被害者のうち唯一の死者となってしまった女子中学生は、腹部を中心に包丁で何度も刺され、苦しみ抜いて死んだらしい。
 連日TVで報道されていた被害者の顔写真を、先輩は憶えていた。カメラに向けて友達と一緒にピースサインを送っている、あどけない笑顔。それとまったく同じ笑顔を見せられて、思わず、「知らない」と答えてしまったのだそうだ。
「きっと、悔しいんでしょうね。あなたみたいな人が大半だから」
 電車を降りて以降ずっと半泣きの先輩から、皮肉げにそう言われて、私は頭を掻く。確かに私は、話を聞いても、そんな事件があったことすら思い出せなかった。